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【メイド喫茶論考】 組み合わせの妙
メイド喫茶を初めて知ったとき、その組み合わせを奇異に感じたことだろう。あたかもそれが突然変異で現れたかのように。しかし、それは現れるべくして現れたのだ。
例えば、「マヨラー」という言葉を覚えているだろうか。なんにでもマヨネーズをかけて食べる人のことを、そう呼んでいたことがあり、マスコミでは奇異なものとして取り上げていた。しかし、マヨネーズの原料は卵と油と酢。卵が絶対に合わない食べ物を列挙するほうが難しいように思えるし、油を使わない料理を考えるのも結構難しいものだ。腐敗を抑える酢の酸味や味が苦手でなければ、マヨネーズを避ける理由は少なくなるはずだ。
文豪の森鴎外の好物が、「饅頭を乗せたお茶漬け」だったという話は雑学のテレビ番組で取り上げられたりして、「気持ち悪い」と思われた人もいるようだが、これも現在の味付けされたお茶漬けの素や居酒屋のお茶漬けを想像するからであって、鴎外が用いたのは煎茶だったという。餡子と餅米でおはぎになるのだから、煎茶との組み合わせは、それほど合わないこともないのではないか。
そして、酒飲みを辛党と云うことから、甘い物を好む人を甘党と呼んで、酒飲みが甘い物を食べると「辛党なのに甘い物も好きなんですか?」と問う人がいる。しかし元々は、酒飲みを辛党と云う連想からの洒落で「飲めない人のこと」を指して甘党と呼んだのであり、かつ江戸時代には酒の肴に羊羹などの甘い物を用いたというくらい、昔の日本酒は本当に辛口だったという。これなどは、歴史の中で言葉の意味が変化し、物へのイメージも変わったために起きた例であろう。
メイドと喫茶店。この奇妙に思える組み合わせもまた、その背景や周辺情報を知ることで印象が変わることと思う。
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【メイド喫茶論考】 メイド喫茶を取り巻くジェンダー
女性がメイドに扮して、男性がそれを愉しみに商業施設に訪れるというのは、性の商品化という問題に突き当たる。
しかし、女性店員は望んで勤めており、一部のマナーを守らない輩を除いては、男性客もまた同じ空間を共有することに協力的である。さらに、女性客が訪れることも珍しくなく、反対に男性が執事として迎える形態や、男装した女性がもてなす店もある。
漫画誌などは今でも、「少年漫画」と「少女漫画」という区分けを持っているが、少年漫画を読む女性も、少女漫画を読む男性も、今や珍しいことではないから当然と云えるだろう。
むしろ興味深いのは、日本では自己の存在や価値における性差が無くなりつつあるのに、現に残っている事実の方である。
一般的に、少年漫画は主人公が状況や周囲の人たちとの関わりの中で、実際に行動を起こして成長を示すのに対して、少女漫画の主人公は内省的に感情の動きを語ることで成長していく様子を物語として展開していくことが多い。
この定義が当てはまるようでいて、あまり当てはまらないように感じるとすれば、まさしくそれは現代の日本を取り巻く「ジェンダー」の問題とも関係している。
ジェンダーという用語は日本では特に社会学や文化的な分野で「性差」と誤訳されたまま広まってしまったが、「性のありよう」の方が意味が近い。「性のありよう」とはどういうことか。
ひと頃、「男脳・女脳」という言葉が流行ったのを記憶している読者もいるだろう。「男は何かをしながら話を聞くことができない」とか、「女は地図を見て空間を把握することができない」といったことの原因は、脳の性差によるものだという説に基づく話である。確かに脳はホルモンの調節なども司っているため、性差によって構造や機能の違いがあるのは分かってきているが、その多くは研究途上。だから、「男脳・女脳」もまた、科学的には実証されていない。ただ「傾向がある」というだけである。
つまり、「性のありよう」とは、男性の中にも女性的な面があり、同じく女性の中にも男性的な面があることを認めつつ、働き方や生き方などを考えていくということだ。
そして、『メイド喫茶』をキーワードに「性のありよう」を考えてみると、男性は「世界観に設定」を求めて、女性は「自分に設定」を課す傾向にあるようだ。
同じ変身願望でも、男の子が憧れるヒーローは単体では存在しえず、対峙する敵が存在する世界が必要となるのに対して、女の子が憧れるヒロインは物語上の敵が必ずしもいなくても成立する。
より正確には、ヒロインが悩む原因は物語の世界観が違う場合でも、友人や好きな人といった人間関係に関わる作品が多く、それらに対応していくのは自分自身だから、変身するのは自身だけという構造になる。自分が変身することで内在する世界をも変革するというように。
これは女性向けの執事喫茶や男装喫茶で顕著なようで、メイド喫茶を訪れる男性は普段着のままであることが多いのに、女性は行く店に合わせた服装で訪れ、時としてコスプレで来店する客もいるそうだ。
「腐女子」という蔑称のような言葉が、いささか自虐的な意味合いを持つとはいえ、女性の間で自称として発生したのは、自身をキャラクターづける女性的な傾向として考えられ、オタク文化を語る上で重要な意味を持つ。
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【メイド喫茶論考】 女性が作るムーブメント
オタク文化として語られることが多いメイド喫茶。そのオタク文化なるものが世間では、男の文化として捉えられている。これは多分に、オタクという言葉が世間に広まったキッカケが、宮崎勤による連続幼女殺人事件だからだろう。
実のところ、当時すでにオタクという呼び方は、アニメファンなどの間では死語になりつつあった。
一方、殺人事件によってオタクのイメージが一般世間に最悪の形で広まる前、雑誌において初めて取り上げられる以前から、その起源には負の側面があったと云われている。
これは諸説あるうちの一つな訳だが、現在のオタクという言葉の位置にはかつて、『マニア』と言う呼び方があった。
対象物が好きであるがゆえに関連する書籍や物品を入手しようと、いささか常軌を逸した金額を投資したり行動する人たちに対して、『ファン』を自認する人たちは「マニアにはなりたくない」とネガティブな意識を持ち、マニアはマニアで「ファンと一緒にするな」と自ら差別化する中で、双方どちらによるものか分からないものの、マニアという言葉に熱狂的という連想からか、「狂」という字を当てたりしていた。
ところが、さらに常軌を逸した、非合法スレスレ、それどころかアニメの制作スタジオからセル画や原画、あるいは特撮作品では撮影現場からミニチュアや機材を持ち出すという完全に犯罪行為と云えることをする者が現れた。
その非合法性ゆえに、互いに名前を名乗らず「お宅」と相手を呼び、そういう輩が「好きだから」という動機でコレクションの自慢をしたりするのに対して、マニアが一緒に扱われるのを拒み、オタクという言葉が発生したというのが、負の側面を持った説である。
その発生から負のイメージを持つオタクという言葉が、コラムニストの中森明夫によって雑誌に、そのスタイルや喋り方、性格などについて「男性的能力が欠如している」というようなネガティブなイメージで初めて取り上げられ、それから六年後に起きたのが、宮崎事件である。
掲載された雑誌自体がメジャーではなかったし、会話の中で使用してもさほど奇異ではない「お宅」という呼び方が、むしろ固有名詞のように単独で定着するというのは、本来なら起こりにくい訳で、忘れられていこうとしている時期に、突如としてマスコミによって使われて広まった訳だ。
ファンやマニアといった、日常語とは違う語句を、センセーショナルな事件で使いたいという意識が、報道する側に働いたのかもしれない。
ともかく、世に出た最初のコラムにおいても、世間に広まったマスコミの報道においても、「オタク=男」という図式が作り上げられた。
しかし近年、女性のオタクが自称する「腐女子」や「貴腐人」という言葉がマスコミに取り上げられ、ブームになったメイド喫茶の店員が女性のオタクと紹介されるようになったことから、「女性のオタクが増えた」と捉えられるようになってきた。
だがこれは、事実と相当の齟齬がある。
例えば、別項にも書いてあるように、自分の想いを具現化する行動力を発揮し、好きなキャラクターに扮するコスプレを始めたのは女性である。そのコスプレを行なったコミックマーケットは、今でこそ男性向けのアダルトな同人誌作品があるという部分がマスコミに面白おかしく取り上げられているが、一九七五年に初めて開催された時には、約七○○人の参加者の実に九十%が中高生の女子だった。男性参加者が過半数を占めるようになるのは、それから六年後の一九八一年のことである。
また、日本のテレビアニメのエポックメイキングとなった作品、一九七四年に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は視聴率の低迷から、一九七九年に放送された『機動戦士ガンダム』は視聴率は悪くなかったものの、スポンサーの玩具の販売不振によりテレビ放送が打ち切られたにも関わらず、それぞれ劇場作品として公開されて、現在に至るも人気を保っているが、その劇場化を後押ししたのは女性ファンだった。どちらの作品も当時、男性ファン、特にSF作品としての視点から「SF作品ではない」と否定する人たちと、「新たなSF作品だ」というような肯定する人たちの間で、険悪な雰囲気が漂っていた。そんな中、作品の世界観や物語などよりも、登場人物を好きになり、その想いを原動力にテレビ局や制作会社に再放送、再作品化を働きかけたのが女性ファンだったのだ。
オタクの負のイメージの一つである、「二次元のキャラクターに恋をする」というのは、むしろ女性的なものなのかもしれない。そして、そのための行動力は男性よりも有るようである。
女の子向けの玩具が、本物の料理ができる玩具や、本当にメイクできる化粧品という方向に展開していることを考えると、興味深いことだ。
「女性は本質的には、ロマンチストではなくリアリスト」と云われることもあるが、むしろ現実と地続きでファンタジーな世界と「行き来できる」特性を兼ね備えているのかもしれない。「想像力が創造力」とでもいうように、女性は夢見たものを具現化するのである。
そしてメイド喫茶も、メイド服を着た女性にかしずかれたい、癒されたいという男性の側の要望があったにせよ、それが実現したのは、商品化された女性ではなく、変身願望を持ち、かつそれを実現しようという行動力を兼ね備えた女性がいたからであろう。このムーブメントは、女性によってもたらされた側面があるのだ。
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【メイド喫茶論考】 制服という記号
メイド服は制服の一つとして認識されている。制服の最も端的な機能は、所属する集団と他者とを明確に区別することであろう。それによって装着者の帰属意識を高め、連帯感を醸成させるのに一役買っている。有名な新撰組が、青と白のダンダラ模様の隊服を作ったのも、出自がバラバラの隊員を統率するためだったと云われているし、メイドという職業においては雇い主との階級や身分の違いを示していると考えられる。
日本では、幼稚園を始めとして学校や職場にも多くの制服が存在しているが、それは多分に機能性よりも、日本人の共通項による安心意識に根ざしているものと思われる。ネガティブなイメージでは、内向的あるいは鎖国的であり、ポジティブなイメージでは、先の連帯感や対外的な認知の向上であろう。
私たちは日常、意識などせずに制服を見ることで、装着者の所属や職種といったものを認識し、その存在を了解している。制服が、事物を抽象化した記号として機能しているからだ。
最も端的な例は、銀行など金融関係の窓口業務や案内係の制服であろう。華やかであるよりも、清潔さを優先しているデザインが多いのは、金銭の取り扱いについて不正が無いことをアピールしている訳だ。
先行する、特定の制服が人気の要因となっている飲食店には、胸の部分が強調されたデザインの『アンナミラーズ』や、明治浪漫を感じさせる『馬車道』などがあるが、通い慣れた常連客には好みの店員が居たとしても、制服を着ているのは個人というよりも企業であり店舗であり、そこには架空でも人格は見て取れない。
それらに対して、店が世界観を持って、店員個人に服装の記号を着せたのがメイド喫茶であり、その点がまったく異なる。
個人レベルでは、対象となるモデルの本来の内面を知らなくても、その格好を真似することで他者に成り代わり、自身の内面を変容したり外部に変化した自分をアピールすることが愉しみとなる。
店員自身が、自らの愉しみのために制服を着るというのは、つまりは『コスプレ』をするということだ。
誰でも今の自分に不満な点や、あるいは不満ではないけれど憧れる存在というものは、多かれ少なかれあることだろう。制服のコスプレだけではなく、別なキャラクターの格好になる場合のコスプレは、その意味合いがより濃く深くなる傾向にある。キャラクターは別な人生とも云える物語を持っているからだ。
欧米では好きなキャラクターに扮することは、仮面舞踏会にならってマスカレードと呼んでいた。それが今や、日本から輸出された和製英語であるコスプレという用語を用いている。
コスプレとは、「コスチュームで遊ぶ」という意味を持たせた造語であり、この言葉が生まれるまでは「仮装の人」などと呼んでいたのが、賛同者を得て定着した。そしてコスプレをする人はコスプレイヤーと呼ばれるようになった。
欧米人がコスプレという用語を用いるようになったのは、日本のアニメや漫画を愛好するようになった人たちの中に、日本への憧れがあったことも影響しているだろう。これには、記号化する文化が日本に備わっていたことも相乗効果をもたらしたと考えられる。
例えば日本画は、写実的ではなく輪郭線をハッキリさせたり色の濃淡を少なくすることで抽象的に描いているとされている。音楽も、欧米では全体のリズムを大切にするのに対して、日本では断片的なメロディーに重点を置いているという説がある。歌舞伎の見得を切る表現などは、つとに例として出されるくらいで、これはそのまま漫画やアニメにおけるキャラクターのポージングにも影響を与えている。特に、ヒーローを題材にした作品では顕著であろう。そのポーズだけで、作品名やキャラクター名が分かるというファンも居るくらいだ。
元来、欧米のアニメファンのイベントなどでは、仮装した人たちがちょっとした芝居をしたり芸をするというのが主流だが、日本ではむしろ止め絵のようなポーズが主体であった。これが欧米の人たちには新鮮に映ったのではないか。そして、止め絵であればその練習は比較的容易であり、その容易さもまた作品の人気と共に受け入れられた要因であろう。
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【メイド喫茶論考】 「見立て」文化
この記号化という文化は、「見立て遊び」として日本の文化に深く根ざしていると考えられる。
記号化の例として日本画などを例に出したが、ある物を別な物を用いて表現し、対象物をより強調して受け手に感じさせるのが「見立て」である。
見立ての代表的な例としては日本庭園がある。日本庭園では、石や砂を用いて水の流れを表現したり、草木の配置によって田園や山間を模したりして、別な場所を見せてくれる。
伝統芸能では、落語で扇子と手拭だけを用いて食事をしたり舟を漕ぐ仕草を演じて見せるし、精進料理には海苔を皮に見立てて鰻の蒲焼を山芋や豆腐で作るというような見立て料理の数々が献立にある。
これらはもちろん、ホンモノではない。本当の姿を再現しきれている訳ではない。
しかし、本物ではないことによって、表現者と受け手の間には、「ある関係」が生まれる。
映画作品に目を向けてみれば、欧米では特撮技術の向上はリアルさを追及することであり、CGの発達により今やCGと実写の合成が分からないくらいにまでなっている。
一方、日本の特撮技術も負けてはいないが、日本ではCGをリアルにしても必ずしも観客に受け入れられないようだ。例えば怪獣映画で着ぐるみの中に人が入っているのが分かる動きであったり、ミニチュアが実物に見えず模型然としていても、それを許容し、むしろそれを愉しむ感覚が根付いているのが理由として考えられる。
そもそも人間の記憶やイメージというのは、他人とは必ずしも一致しない。
先の日本庭園で云えば、本物の海を見せたところで、見せようと思った人と見せられる人とでは海のイメージが異なるだろうし、落語で本物の蕎麦を器に盛って出したところで、観客がその蕎麦や器に自分の好みと合わなければ違和感を感じることもあるだろう。
そうであれば、抽象的な記号として提示された方が、受け手は自分のイメージで愉しむことができる。
あるいは、別な物を用いて表現されることで、元になった物との差異が新たな体験として愉しく感じられる。
もし日本の観客が、映像的なリアルさだけを求めていたら、日本の特撮映画はとっくに見捨てられていただろう。
しかし日本では、それが作り物と分かっていても、観ている側がそれを受け入れることによって、作り手との「共同作業」として愉しむ文化があるのだ。
この、「共同作業」こそが表現者と受け手との間に生じる関係であり、かつ簡便さが、メイド喫茶の肝ともなっている。
演じるメイド側は変身願望の体現としての習熟を必要とせず、客の側は雰囲気さえ壊さなければ必ずしも演じる必要は無く、いっときの憩いとして利用することができる。
むしろ、一緒に同じ空間を共有している、あるいは作り出していることがまた愉しみとなるという訳だ。
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【メイド喫茶論考】 名前が命を宿す
『言霊(ことだま)』という言葉をご存知だろうか。
『言魂』とも書き、日本では声に出した言葉に霊や魂が宿り、現実の事象に影響を与えるという考え方が古来からあり、神道における祝詞では、誤読を厳に戒められているという。
また、万葉集には柿本人麻呂が詠んだとされる、「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」という歌があり、日本の国は言霊によって幸せがもたらされると歌われている。
同じように欧米のキリスト教圏では、新約聖書の『ヨハネによる福音書』の第一章に、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とある。
それらの思想を背景にして、名前もまた単なる識別のための記号ではなく、なんらかの力を持つという考え方があり、子供に不吉な名前を付けることで悪運や悪霊を遠ざけるという風習や、本当の名前は親などの限られた親族のみが呼んで、日常的には別な名前を用いるといったことが、日本だけではなく世界中に散見することができる。
ここで、そんなオカルト的な話をするつもりは毛頭無いが、流行といったものには、この『名前』というものが重要な役割を果たすことがある。
メイド喫茶を始めとした、オタク文化は時に、「アキバ系」とか「アキバ的」というように、秋葉原という地名が冠されることがある。その昔は、石原慎太郎の短編小説『太陽の季節』に影響を受けて無秩序な行動をとる若者を示す「太陽族」などのように、バイクや自動車で暴走行為をする「暴走族」、原宿の歩行者天国でダンスを踊る「竹の子族」という流れで考えられたのか、「アキバ族」という呼び方もあった。
いずれにせよ、「アキバ」と頭に冠せられているが、実際にはオタク文化の中心地は別に秋葉原ではない。都内であれば、新宿もオタク的な店舗は充実しているし、女性のオタクが集まる池袋は「乙女ロード」と称されている。それこそ、メイド喫茶の伝播の途中には秋葉原は重要な場所ではあったが、原形としての発祥はイベントでの企画であり、秋葉原という訳ではないし、メイド喫茶の分布も決して秋葉原に偏ってはいない。
しかし、人々にイメージを想起させることには成功している。それは、人から人への伝聞、すなわち流行を起こすのに重要な要素となっている。
「日本各地に点在している」とか「各地で自然発生的に現れた」と、あやふやに説明されるよりも特定の地名が中心地、あるいは発祥地として云われる方が、記憶に残りやすく人に語りやすい訳だ。
オタクという言葉も同様だ。
オタクの語源や広まった過程はすでに述べているが、現在の捉えられ方は、アニメや漫画、あるいは特定のジャンルを愛好し、精通すると共に世間からは隔絶した感覚を持っている、当たり障りの無い言い方では趣味人、有る言い方では変人といったところであろう。
これを文章や会話の中で、いちいち述べるのは大変である。人に伝えにくい話は、よほどの労力をかけなければ伝わらない。それが、オタクという単語で済んでしまう。
説明という意味においては不完全であっても、「全て」を内包しているという点で最適な言葉となることで、オタク的なるモノはブームを起こす力を得た。
今ひとつ、メイド喫茶に付随して語られる用語『萌え』も同様である。
この用語も、その語源については諸説あり、「燃える想い」といった熱く強烈な感情ではなく、草木が萌えいづるように心に芽吹く感じという「好きだ」という気持ちを表す内面的な感情の連想から発生したとも、単に「燃える」とパソコンのキーボードで入力するさいに漢字変換を間違えたという偶発的な理由を起源とする説、あるいは「燃える」という表現を特定の仲間やコミュニティ内で用いた隠語という説など、断定的に語ることは難しい。
しかし、それらの複数の起源を正確に説明するのが困難であるように、もっと困難な説明を可能にしたのは、この「萌え」という言葉なのだ。
その、もっと「説明が困難なもの」とは、人による「感覚のズレ」である。
女性を対象として例を挙げるが、女性を褒めたり、好きになった理由を語るとき、最大公約数となる言葉は、外見であれば「美人」とか「可愛い」、内面であれば「優しい」とか「知的」といった言葉だろう。
しかし、より特定の個人を対象にし、具体的な要素を挙げれば人それぞれのはずである。それは目元などの身体の細かい部分かもしれないし、メガネや服装といった身に付ける物かもしれない。あるいは、歩き方や飲み物を飲む仕草、笑い方や怒るときの態度といったように細分化されていく。
それらを突き詰めていくと、ある時点で他人にそのことを理解させるのは困難になるはずである。いくら目元の魅力を語っても、同じように目元に注目していない他人、口元が素晴らしいと思っている人に語っても通じないだろう。メガネがどんなに似合っているか語ってみても、素顔の方が良いと思っている人とは、想いは共有できない。さらに、「怒り顔が魅力的」といった類の場合は、自分が心に想うのは勝手だが、言われる相手は喜ばないだろうし、褒め言葉としても成立しにくい。
しかし、「萌え」という言葉は、それらの個々人の持つ「好き」という感情を全て内包してしまうのである。
「萌え」の要素となる例を挙げると、外見的な萌えでは「メガネ」や「猫耳」といった物がある。前者が現実寄りなのに対して、後者はファンタジー寄りという違いはあるが、いずれにせよ、その姿に萌える場合、本来はその姿で設定されていない漫画のキャラクターに同様の姿を被せて萌える人もいれば、初めからその姿だと設定されているというだけで萌える人もいる。メイド喫茶のメイド服が、萌え要素として機能するのは、この系統である。
行為的な萌えとしては、「ドジッ子」が一番分かりやすいだろう。挨拶しようと頭を下げてテーブルに頭をぶつけるとか、失敗したことを謝って次の行動に移ろうとした瞬間、今度は転んでしまうといったパターンを持つ。単純に可愛いと思えなくも無いものの、自分がその失敗の被害者となることを考えると、必ずしも魅力にはなり得ないが、そこに萌えるという人はいるのである。メイド喫茶の場合、運ばれてきた飲み物がこぼされるというハプニングがあれば、それはトラブルではなく幸運だったと、「萌える」人からは羨ましがられることであろう。
さらに、内面的な萌えには、「クール」や「ツンデレ」などがある。クールというのは、無表情で冷たい雰囲気、あるいは口数が少なく、ほとんど返事を返さないタイプを指す。そして、ツンデレは今やバリエーションが増えてきたが、最初はツンツンとトゲのある態度を取りながら、新密度が増したり、二人きりになったときにはデレデレと甘えるようなタイプを云う。これらの性格も、とても万人受けする魅力とは言い難い。
このように、他人にこと細かに自分の感じたモノを説明する必要は無いかもしれないが、自分の気持ちを伝えたいという時はあるだろうし、同意や理解を完全には得られなくとも、片鱗だけでも分かってもらいたいという時に、「萌え」という言葉はその機能を果たすのだ。
極めて特化された、「好き」という意味を拡大的に内包している便利な言葉だからこそ、広く伝播して使われるようになった「萌え」という言葉。この言葉は、歴史的には「芽が出る」という意味を持ち、新しい造語ではなかったという点に注目するべきであろう。
それは「メイド喫茶」においても同様で、その発祥からすれば「コスプレ喫茶」で定着してもおかしくなかった。
しかし、オタクという単語が従来から「お宅」という用語で存在し、アキバという地名が電気街や問屋街だった頃から「秋葉原」を指す別名として知られていたように、造語であるため単語としての説明が必要な「コスプレ」よりも、普通名詞として存命していた「メイド」の方が、そのブームを牽引することになったのは疑いようも無い。
子供とペットを同列に扱うと批判的に見る向きもあるかもしもれないが、父親などは子供の名前が決まってから愛しく感じるという話もあり、ペットもまた名前を呼びかけているうちに、経過する時間のせいのみならず、その行為によって愛着を深めるそうだ。
もとより名前は識別するためのものであるが、固有の事物以外の、あやふやな事象などを認識するのにも有用な役割を果たしているのである。
造語が廃れた例も挙げておこう。『ジャパニメーション』という言葉である。
マスコミでは、日本の優れたアニメが海外でも評価され、「ジャパニメーションと呼ばれている」と報道された時期があり、現在でもたまに目にすることがある。
元々は一九七○年代に北米で用いられた表現だとされているが、それが輸出した側の日本企業によるのものなのか、輸入した側の現地の企業によるものなのかは定かではない。
ただ、綴りが「Japanimaion」となると、日本人を侮蔑するときの「ジャップ」という綴りに「アニメーション」と付く形になるため、人種差別に敏感なアメリカ人の側から不適切な表現と指摘されている。
また、「漫画映画」を意味する「アニメーション」の綴りは「animation」であるから、日本語で「アニメ」と呼ぶように短縮することはできず、海外では「anime」という綴りで「日本の作品」と認識されているそうだ。
海外で差別用語の疑いがあると指摘されているのを、わざわざ使う必要は無いのにマスコミが用いているのは、その言葉が「一言」で「日本発の海外で評価されているアニメ」という説明を可能にしている便利な言葉と認識されているからだろう。
しかし、造語はどうしても、象徴する言葉にはなりえても、最小限ながら説明が必要になるし、なによりも違和感がぬぐえないことがままある。そのためか、ジャパニメーションという言葉は、制作者側にもファンの側にも定着しなかった。
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【メイド喫茶論考】 妄想≒バーチャル≒仮想世界
「オタクというのは2次元に萌えるものだと思っていたのに、どうして三次元の実在の女性に萌えるのか」という質問をされたことがある。
そもそも、「オタクは二次元にしか興味が無い」というのが誤解ではあるのだけれど、オタクのルーツに漫画やアニメという二次元媒体が大きく関係しているため、仕方の無いことなのだろう。
今でこそ小説は文学という地位を築いたが、昔は小説を読んでいるような人は必ずしも尊敬されていなかった。
没頭していると、周囲から言われる言葉は今と同じ、「もっと現実を見なさい」だった。
これもまた、時代の流れの中で価値観が変わってきたことで忘れられた、「同じことの繰り返し」なのかもしれない。
そして、小説を読む愉しみが漫画やアニメを観る愉しみと同じように、実体を伴ったメイド喫茶を愉しむのもまた同じである。
すなわち、「日常と違う仮想世界」という観点で愉しんでいるのだ。
メイドというキャラクターを通した一種の妄想で世界を補完し、テーマパークで遊ぶように。
メイド喫茶の中には店員をモデルにした、でも似ているような似ていないようなというイラストをあしらったキャラクターグッズを展示したり販売している店があるが、それは浮世絵みたいなもので、記号化されているがゆえに同一と認識されるのだ。
見立て文化の項で触れたように、そもそも人間は情報を断片化して記憶している。全ての情報を余すことなく記憶するというのが無理だからである。
例えば、似顔絵などはリアルに描いても「似ている」とは認識されにくい。むしろ、目の位置や顔の輪郭などの特徴を残して簡略化した方が、より多くの人に「似ている」と認識されるそうだ。
その点において、二次元である絵に魅力を感じるのは、記号化された特徴の中から自分の好みの部分を選択したうえで強調して認識できるからこそ、受け取り方の自由度が高いのが理由として考えられる。
そしてそれは、三次元の実在の人物になっても同じことで、分かりやすい特徴を備えていると、多くのファンを獲得しやすい。それがいわゆる個性というものである。
アイドルなどであれば、その個性は個人に帰属する訳だが、個人ではなく服装的な特徴に特化されたのがメイド喫茶の魅力なのだ。
だから、あくまで客は「メイド姿の店員」に萌えているのであり、店員のプライベートには関わらずに、口説く真似に留めるのがまた粋な遊びなのである。
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【メイド喫茶論考】 メイドの服装
では、店員としてではなく、歴史上のメイドについて述べていくことにしよう。
仮想世界を愉しむための一助となることと思う。
主に黒か紺色のワンピースに、膨らんだ肩とヒラヒラのレースが付いた特徴的なエプロンと、レースの付いたヘッドドレス(頭飾り)。
そして、「お帰りなさいませ、ご主人様」と、うやうやしく出迎えてくれる女性。
メイドと聞いて、多くの人が思い描くのは、こんなイメージだろうか。
服装の特徴からすると、十八~十九世紀のヴィクトリア朝時代のイギリスにおける、パーラーメイド(客間女中)がその原型だろうと思われる。
当時の上流階級では、多くの召使を抱えており、メイドは細かく役割分けされていて、パーラーメイドは訪ねてきた客をもてなしたり、食卓の給仕をするのが役割だった。そのため、雇い主の見栄が反映され、およそ実用的とはいえないデザインのエプロンを着用し、着飾らせられていた。
一方、「お帰りなさいませ」と家人を出迎えるのは、ハウスメイド(家事女中)であった。ハウスメイドの仕事は多岐にわたり、各部屋の清掃に生活用品の手入れ、食事の給仕にベッドメイキング、戸締りなどをおこなうため、その服装は簡素だったようだ。
つまり、最初に示したメイドには、パーラーメイドとハウスメイドのイメージが混じっていると云えるだろう。
ところで、ヴィクトリア朝時代のメイドの服装は、当時にしても時代遅れのものだったようだ。
イギリス革命が起きた後で、上流階級が下層の人間が自分たちと同じような服装をするのを嫌ったためとも、富を得た中流階級が上流階級に憧れて伝統的な服装をさせたためとも云われている。
しかし、そのデザインの起源そのものは不明で、研究も進んでいないらしい。
メイド服に歴史的価値があるとは思われていないからだろう。
かつて浮世絵が日本では価値のある物とは思われておらず、海外での評価の高まりを経てから研究が進んだように、日本でのメイドブームが、かの国に伝わって研究が深まり新たな歴史的発見が、……という事もありえるかもしれない。
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【メイド喫茶論考】 ご主人様とメイドの関係
メイド喫茶においてメイドとの談笑は、楽しいものである。
しかし、先にも少し触れたように、当時の意識として、上流階級の人間はメイドを同じ人間とは考えておらず、多くのメイドの出自であった下層の人々は上流階級の人間を畏怖していた。
そのため、メイドは家人の目から遠ざけられるように地下室や別棟で生活させられ、雇い主と廊下ですれ違うときにはメイドは目を合わせないように背を向けるのが最適なマナーとされていた。目が合ったという理由で解雇された例もあったようで、雇い主が落とした物を拾ったさいには、雇い主に自分の手が触れないようにトレーに乗せて渡したとされる。
また、メイドを統括しているのはハウスキーパー(家政婦)であり、メイドへの指示は雇い主ではなく、ハウスキーパーから出されていた。
つまり、メイドとご主人様との間には、相当の距離があったことになる。
ちなみに、ハウスキーパーはその役割から、ある程度の知識や教養が必要とされ、家柄が良いか雇い主の血縁者がなったとされる。
ただ、これではメイドは虐げられていただけのようにも思えるが、雇用主と良好な信頼関係を築いたメイドは、引退後に土地を与えられて宿屋を営んだりしたそうである。
そして、メイドから女主人へと昇りつめた者や、ご主人様と結婚したメイドも少なからずいたという記録がある。
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【メイド喫茶論考】 メイド喫茶のメイドとは?
こうしてメイドの実像をあげてみると、メイド喫茶のメイドは「真っ赤なニセモノじゃないか」と思われる読者もいるだろう。実際、「基本設定が間違っているから認めない」という人もいる。
しかし、繰り返すがメイド喫茶とは参加型のテーマパークであり、いわば「ごっこ遊び」である。
鬼ごっこを、「姿形がリアルじゃない」とか「鬼の設定が間違ってる」と批判するのは不粋というもの。
「ごっこ遊び」というものは本気で臨むのが愉しむ秘訣である。
鬼が、やる気なさそうにダラダラと追いかけたり、どうせ捕まっても殺されるわけじゃないしと冷めて逃げ回る鬼ごっこが楽しいはずも無い。
ただし、店員にメイドの服装をさせただけというメイド喫茶も在る。
行く喫茶店は目的によって選べば良いので、当然のことながら「眺めるだけ」というのもメイド喫茶の愉しみ方の一つである。
現代のメイド喫茶においては、伝統的なデザインだけではなく、アニメやゲームを意識したデザインのものも多く見受けられ、時代もジャンルも越えた服装の違いを堪能できる。
それと、十九世紀のイギリスでは、ちょっとした日本ブームが起きていた。日本から輸出した食器が、上流階級の間で好まれたのである。
もちろん、実際の日本の様子など知るべくも無い。おそらくは、彼らは自分たちなりに「存在しない」日本を思い描いていたはずである。
私たちが、「存在しない」メイドのイメージを膨らませて愉しんだとて、そうおかしな事ではないだろう。
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