メイド喫茶が、メイドと喫茶店の融合であることを考えると、やはり喫茶店の歴史は無視できない。実像としてのメイドを離れ、喫茶店と結びついたのは何故なのか。一方の喫茶店についても、その歴史に触れてみよう。
喫茶店とは、呼んで字のごとく茶を喫する所であるが、「喫茶店とは?」と尋ねられて、とっさに形態や特徴などを述べられる人はいるだろうか。
海外では十七世紀頃にコーヒーがキリスト教徒の洗礼を受けたという。それまでは、カフェインの興奮作用もあってか、コーヒーは異教徒や悪魔の飲み物とされていたのだ。この洗礼により人々がコーヒーを飲むようになり、イギリスのロンドンでは一六五二年に、フランスのパリには一六七三年にコーヒーを専門に供する店ができた。「カフェ」がフランス語でコーヒーを意味するのは、周知の通りである。
一方、日本では室町時代にはすでに茶屋の原型があったようで、十六世紀頃に豊臣秀吉が催した茶会で菓子を献上した者に茶屋株の特許を与えたという記録がある。さらに江戸時代中期には、芸妓との飲食を目的とする待合茶屋も現れた。
現代的な喫茶店に近い形態としては、日本には明治二十一年(一八八八年)に、上野西黒門町に『可否茶館』が開店した。可否とはもちろんコーヒーの当て字である。店内には、国内外の新聞を取り揃え、囲碁や将棋はもちろんトランプなどのゲームが置いてあり、化粧室やシャワー室も備えてあったというから、現在の漫画喫茶やインターネット喫茶を思わせる。しかし、新し物好きや珍し物好きな人たちの間では流行ったものの、コーヒーの味は一般の日本人には不評であり、全国に広がるのには時間を要したうえ、ちょっとした混乱が生じた。
混乱というのは、明治時代の終わりに現れたカフェの存在である。コーヒーという意味なのだから、何が問題なのかと思われるだろうが、洋食や洋酒を提供する店がカフェを名乗っていたせいである。明治四四年(一九一一年)に京橋日吉町(現・銀座八丁目)に日本初のカフェとされる『カフェー・プランタン』が開業し、その店ではコーヒーと酒を提供していたのであるが、他のカフェのメニューには、アルコール飲料はあってもコーヒーが記されてない例があった。つまりコーヒーを出していないにもかかわらずカフェと称しており、お客の側もまた西洋文化の雰囲気を楽しむのが目的で、まだそれほど知らない飲み物の種類には拘っていなかった。むしろ、本場のカフェでは男性が給仕をしていたのに対して、カフェー・プランタンで始めた「女給が接客する」のが評判になり、歓談の相手から一緒にダンスをしてくれるような店も現れ、この流れはやがてキャバレーなどの風俗店へと繋がっていった。
また、東京のカフェの中には、大阪から女性を集めて女給に大阪弁で接客させるというのを売りにしていたという記録があり、これなどは現在のメイド喫茶に通じるものだろう。江戸時代の江戸の人間が、京言葉に憧れたという話もあるから、知らない文化を愉しむというのは人間の一種の本能であるのかもしれない。
一方、カフェとは別な流れが同時期に現れた。ミルクホールである。ここでは和服にエプロン姿の女給が勤めていて、温めた牛乳やパン、そしてコーヒーやアイスクリームなどを出していた。多くは官報を置いており、官報には国立大学の入学試験の告示や合格発表も載っているため、学生が多く通ったという。面白いのは、当時まだ飲み慣れていない牛乳の臭さを消すために「コーヒーを加えた」という事だ。実際、牛乳のほうがコーヒーよりも値段が少し高かった。この事によって、大正から昭和にかけてコーヒーが大衆に広まり、喫茶店という形態もまた全国に増えていった。