女性がメイドに扮して、男性がそれを愉しみに商業施設に訪れるというのは、性の商品化という問題に突き当たる。
しかし、女性店員は望んで勤めており、一部のマナーを守らない輩を除いては、男性客もまた同じ空間を共有することに協力的である。さらに、女性客が訪れることも珍しくなく、反対に男性が執事として迎える形態や、男装した女性がもてなす店もある。
漫画誌などは今でも、「少年漫画」と「少女漫画」という区分けを持っているが、少年漫画を読む女性も、少女漫画を読む男性も、今や珍しいことではないから当然と云えるだろう。
むしろ興味深いのは、日本では自己の存在や価値における性差が無くなりつつあるのに、現に残っている事実の方である。
一般的に、少年漫画は主人公が状況や周囲の人たちとの関わりの中で、実際に行動を起こして成長を示すのに対して、少女漫画の主人公は内省的に感情の動きを語ることで成長していく様子を物語として展開していくことが多い。
この定義が当てはまるようでいて、あまり当てはまらないように感じるとすれば、まさしくそれは現代の日本を取り巻く「ジェンダー」の問題とも関係している。
ジェンダーという用語は日本では特に社会学や文化的な分野で「性差」と誤訳されたまま広まってしまったが、「性のありよう」の方が意味が近い。「性のありよう」とはどういうことか。
ひと頃、「男脳・女脳」という言葉が流行ったのを記憶している読者もいるだろう。「男は何かをしながら話を聞くことができない」とか、「女は地図を見て空間を把握することができない」といったことの原因は、脳の性差によるものだという説に基づく話である。確かに脳はホルモンの調節なども司っているため、性差によって構造や機能の違いがあるのは分かってきているが、その多くは研究途上。だから、「男脳・女脳」もまた、科学的には実証されていない。ただ「傾向がある」というだけである。
つまり、「性のありよう」とは、男性の中にも女性的な面があり、同じく女性の中にも男性的な面があることを認めつつ、働き方や生き方などを考えていくということだ。
そして、『メイド喫茶』をキーワードに「性のありよう」を考えてみると、男性は「世界観に設定」を求めて、女性は「自分に設定」を課す傾向にあるようだ。
同じ変身願望でも、男の子が憧れるヒーローは単体では存在しえず、対峙する敵が存在する世界が必要となるのに対して、女の子が憧れるヒロインは物語上の敵が必ずしもいなくても成立する。
より正確には、ヒロインが悩む原因は物語の世界観が違う場合でも、友人や好きな人といった人間関係に関わる作品が多く、それらに対応していくのは自分自身だから、変身するのは自身だけという構造になる。自分が変身することで内在する世界をも変革するというように。
これは女性向けの執事喫茶や男装喫茶で顕著なようで、メイド喫茶を訪れる男性は普段着のままであることが多いのに、女性は行く店に合わせた服装で訪れ、時としてコスプレで来店する客もいるそうだ。
「腐女子」という蔑称のような言葉が、いささか自虐的な意味合いを持つとはいえ、女性の間で自称として発生したのは、自身をキャラクターづける女性的な傾向として考えられ、オタク文化を語る上で重要な意味を持つ。