無限に広がる、世界と世界を繋ぐ超空間。
上も下も右も左もない、ただひたすら何もない超空間。
まるで絵具のパレットに、黄緑色や水色やピンクや赤色や青色の絵具を混ぜたような模様が、四六時中うごめいている。
それはまるで夢の世界にも似ている。
そんな空間に不釣り合いな、旧式な蒸気機関車が走っている。
汽車は長く力強い汽笛を、まるで魂の歌のように響かせながら、空間をも揺るがす勢いで走っている。
彼女の走りはいつも安定していて、時刻表なんてものは無いにしても、その勇姿は見る人を魅了するものだと思う。
僕はといえば自室で腕をガクブルと震わせながら、情けない悲鳴にも似た声を上げている。
「はぁ、はぁ…………35……はぁ……36………37……はぁ……38……あぁ……ぐっ………39………………はぁ……………よ、40……!」
40まで数えたところで僕の腕は限界を迎え、力なく崩れた。
鼻の先には赤いカーペットに覆われた床。
「お疲れ様です。ご主人様」
「ありがとう、イオ」
その様子を見ていたイオは、僕のしていることが終わったと認識すると、フェイスタオルと水の入ったコップを手渡してくれた。身体を起き上がらせ、プルプルと震える手で受け取った。
密室である車内では全身の毛穴という毛穴から滝の様に汗が噴き出し、それを拭きとった肌触りの良い白いタオルは一瞬にして湿り気を帯びていく。
冷たい水は身体から急速に熱を奪っていって、気持ちよかった。
筋トレ、もっと頑張らなきゃな……………。
そう、僕は筋トレとして、腕立て伏せをしていた。
それはまあ、うん、分かるとは思うけれども、じゃあ、何で僕が筋トレしているのか、それにはしっかりとした理由がある。
というのも、僕はハンザの世界で思い知らされた。
僕は、イオとコスモスに守られてばかりで、無力でしかないのだと。
このままでは彼女たちに全面的に頼ざるを得なくなる。
それはさすがにまずいと考え、少しでも自分の身は自分で守れるように、欲を言えばイオも守れるように、まずは体力作りをしているという訳なのだ。
まあ、イオを守る、なんてのは無理に等しいのだけれど。
元々陸上部に所属していた僕は体力がある方で、部活の中でやっていたトレーニングメニューをこなすことはあまり苦にはならなかった。
ただ場所が場所なため、狭い車内で出来る筋トレをやっていたのだ。
久しぶりにやったような気がする。うぅ……腕がまだ震えていて力が入らない。
「少し休憩したらシャワー浴びてくるよ」
「それでは、私はラウンジカーにいますから、何かあったらお呼びください」
「うん、分かった」
「失礼します」
イオは深々とお辞儀をすると、ドアをゆっくりと閉めラウンジカーへ向かったらしかった。僕はしばらく近くにあった柔らかいソファーに座って休憩した。
「筋トレ、もっと頑張らなきゃな……………」
当然、僕の独り言に返事をする声はない。
部屋の中の装飾品に目をやりばがら、心拍数が徐々に落ち着くのを待つ。
十分休憩したのち、整理運動としてストレッチを済ませ、さっさと後ろの客車へ向かった。
通路にある窓からは、外の様子が分かった。
ハンザたちと別れてから三日、未だどこの世界にも入らずにひたすら超空間を走らせている。
効果があるかは分からないけど、時々停車させて、コスモスを休ませるようにしている。
自己診断プログラムを常に作動させている彼女には、異常があればすぐに言うように命令してある。
機械に素人の僕に何が出来るってわけでもないけど、せめて無理はさせないように気を付けるようにした。
何かあっても自己修復装置である程度の損傷や摩耗は直せるとのことなので、僕は安心してこの旅を続けられる。
いつか、たどり着けるといいな、敵の手掛かりに。
僕はそんな風に思いながら、浴室の付いている車両に乗り移った。
バスルームは人2人が入ってもゆったり出来るくらいのスペースがあって、照明で明るかった。
普段は湯船にお湯を張って長湯するのだけど、今日は運動の汗だけを流しに来た。
脱衣所に置かれた青い籠に、着ていたスポーツ用の服を入れ、その横にある台には着替えを置いた。
洗濯機は車両の後方にあるので、あとで入れておこう。
僕は服を全て脱ぎ、お風呂場へと足を踏み入れた。
タイルは冷たくはなく、かと言って温かくもなかった。
蛇口を捻るとノズルから、勢いよくお湯が吹きだした。
湯気が浴室内に充満し、温かいシャワーは汗で冷えた身体に生気を吹き込んだ。
石鹸を泡立てて全身を洗い、汚れが一気に落ちる感覚がした。
運動後のシャワーは、たしかに気持ちい。
汗を沢山かいたからこそ、この洗われる感じは本当に好きだ。
お湯は温ければ温いほどいいな。
さっぱりした後はタオルでよく身体を拭いた。
真新しい服に着替え、暖かなお日様の香りを身にまとわせて僕はラウンジカーへと向かった。
連結幌では、向こう側の車両とこちら側の車両が左右に動いていている。僕は2枚の銀色の板で繋がれた小さな橋を渡った。
ラウンジカーはドーム型の天井に丸い照明がシックに照らしていて、落ち着いた雰囲気を演出している車両だ。
床は木目調のデザインで、腰が深くまで沈み込むほどフカフカな一人用のソファーや、U字のソファー、それから膝くらいの高さの低いテーブルがあり、十分くつろげるようになっている。
イオはそのうちの一つのソファーに腰かけていて、茶色いブックカバーを付けた本を一冊読んでいた。
その本は見覚えのあるものだった。
以前、夏休み中に凛音や里久と遊びに行ったときに、立ち寄った本屋で買った小説だ。
イオが初めて自分で選んだ本だからか、彼女はとても大事にしている。
彼女はこちらに気づくと、本を読むのを止め、顔を上げた。
「もう上がられたんですね」
「うん。さっぱりしたよ。ね、その本、面白い?」
「はい!とっても!ご主人様も読みますか?」
「また今度でいいよ。ちょっとここでくつろぎたいだけだからさ」
「それじゃあ、お茶を淹れてきます」
本をテーブルに置くと、イオはお茶を淹れに食堂車へと移った。
僕はソファーの背もたれにもたれかかりながら、ボーっと外を眺めた。
相変わらず、景色と呼べるようなものは存在しなかった。
奇怪な模様が、波のように蠢くだけだ。
数分後、カチャカチャと食器の音がした。
イオの持つ銀色のお盆には白いティーポットとカップが二つ乗っていた。
僕は本が濡れないように、手に持ってどかした。
ポットの中身は紅茶で、僕とイオのカップにそれぞれ均等になるように注がれた。
彼女の繊細で細い手は受け皿を掴んで、コトンと僕の前に置いた。
「お茶です。今日はダージリンティーを淹れてみました」
「ありがとう。はいこれ。濡れないように」
「ありがとうございます」イオは本を受け取ると、テーブルの端に置いた。
それを見届けて、僕はカップの持ち手を掴み、口へと運んだ。
カップを傾けお茶を飲もうとした瞬間、唇や舌にチクりとした痛みが走った。
「…………あち!」
思わず顔をしかめた。
「大丈夫ですか?」とイオは少し心配そうにして訊いた。
「あぁ、うん。大丈夫だよ。ちょっと熱かっただけ」とすぐに笑って見せた。
「気を付けてくださいね?ご主人様に何かあったら私は……………」
「大丈夫だよ。次から気を付けるから。ほら、そんな顔しないでよ」
不安そうな表情だったイオはほっと胸をなでおろし、自身のカップに口をつけた。
しばらくして僕はまた外の景色を眺めて、そして一口紅茶を飲んだ。
シュガーポットとミルクポットもつけてくれていたようで、僕はそれらを少しずつ入れる。
イオは再び読書に取り掛かっている。
何気ないこの瞬間が、僕にとっては平和に感じた。
こういうのがずっと続いたらいいのにな。
お茶を飲む音と、一定の間隔の本を捲る音以外は沈黙に包まれている。
そんな時、ピンッ♪と軽快な機械音がなり、次には落ち着いた少女の声がした。
これは、コスモスが何か話すときの合図だ。
「あの……マスター。少しいいですか」
「うん?どうしたの?」
「相談したいことがあるんです。その………」
いつも淡々と報告し、落ち着いた雰囲気で会話してくれるコスモスだけど、この時は酷く自信なさげだった。
この時、僕は何やら嫌な予感がした。
いつもと違うことが起きるときほど、不安なことはない。
それはきっと地球を壊された時も、ハンザの世界で襲われた経験から、感ぜられるものだ。
「さっきから誰かが私をずっと見ている、そんな感じがするんです」
「誰かが見ている?」
「はい」
僕とイオは顔を見合わせ、お互いに首を傾げた。
「8時の方向ぐらいから視線を感じます」
「視線…………?」
「はい、視線です」
僕は急いで左側の窓を開けて、外の様子を確認する。
しかし、どこを見ても、それらしき影は見当たらない。
「特に何もないよ。レーダーには反応はあるの?」
「空間レーダー、対空レーダー共に反応はありません」
「他のセンサーにも?」
「特殊ソナー、長距離レーダー、音響センサー、生命反応探知機にも反応は見られません」
「それじゃあ、レーダーの故障とか?」
「自己診断ピログラムにエラーは見られません」
「じゃあ、気のせいじゃ…………?」
「変なことを言っているのは分かっています。…………でも感じるんです。それが何かは分かりませんが……」
コスモスにしてはいつもの余裕がないように感じた。
本人も何が何だか分からず困惑しているようだった。
レーダーに反応しない、センサーにも反応しない、でも視線は感じる……………。
「そ、それって」
ゴクリッと唾を飲み込み、頭の中で思い浮かんだことを口に出してみた。
「幽霊……………とか?」
自分で言ってて恐怖が沸き、身震いと共に鳥肌が立った。
酷く不気味に感じた。
「幽霊ってなんですか」
僕が恐怖で身が震えているのとは対照的に、イオはいつもの明るい声で訊いた。
「幽霊……………死者が成仏できずにこの世に姿を現す姿。お化けとも言う」
辞書を朗読するようにコスモスは答えた。
「ぜひお逢いしてみたいです!」
「あんまりお逢いしない方がいいよ!?」
目をキラキラと輝かせて興味津々にイオにすかさずツッコミを入れた。
「そうなんですか」
「そうなんですよ?幽霊に呪い殺される、なんて話もあるし………」
「そんな時は私とコスモスがご主人様をお守りします!」
イオは「任せてください!」と言わんばかりに両手を握りしめてアピールしている。
頼もしいんだけれど、そうじゃない。
そもそも幽霊なのかも分からないし、第一そんなことあるわけ……………。
いや、あり得ないことはない。
嘘のような事だって本当に起こる。
空飛ぶトンデモ列車であるコスモスがそれを証明してしまっている
「とにかく、速度を上げてみようか。この空域が変なのかもしれないからさ」
「かしこましました。第4戦速まであげます」
機関車の動輪を結ぶ主連棒の動きが速くなり、列車が加速した。
「何もないといいけど」
なんてことを言ってフラグを立ててしまったのか、そんな願いは次の瞬間に簡単に打ち砕かれた。
突然、ピー!ピー!ピー!と何かの警報の音が僕らの耳を突き刺したのだ。
「な、なに!?」
不意の警報に思わず飛び跳ね、僕は叫ぶように訊いた。
「緊急事態発生!何者かにロックオンされています!」
「何者か!?」
「おそらく……さっきから私を見ていた者だと思います」
ミサイルアラートが客車に鳴り響き、どんどん不安が煽られる。