暗い道。右も左も、上も下も真っ暗。
後ろの方、つまりは凛音と里久が入った入り口は、明るい。
そして、2人が向かう先に、小さく光がある。
まるでトンネルみたいに、この暗い空間は2つの光を繋いでいるのだ。
凛音も里久も、手を前に伸ばして、何か壁のようなものがないか探しながら歩いた。不安はあるものの、攻撃を受けた2人は感覚が少々麻痺しており、歩むことを止めなかった。
途中、なんとなく、光のある方とは違う方向に行ったらどうなるのかという興味が里久の中に沸きはぐれそうになったが、凛音が彼の腕を強く引っ張ることでどうにか、出口と思われるところまでたどり着いた。
「こ、ここはどこ……………?」
2人が穴を抜けると、穴の外には見たこのない街が広がっていた。
どこか未来的で、白い柱のような建物が何本もそびえたっている。
建物と建物を挟むように広く、舗装された道。どうやらここは大通りであるらい。
もっとも不自然なことは、この大通りと大きな建物から察するに大都会であるはずなのに、人の影どころか鳥さえ飛んでいないという点だった。人が住んでいる街特有の音、匂いが欠落していた。
空は分厚い雲に覆われていて、街全体に陰鬱の風が吹き抜けている。
2人は仲の良いことに、まるで廃墟に来てしまったようだ、と思った。
「里久、ここ、どこだか分かる?」
「いや。俺は地理はさっぱり…………。てか、お前の方が詳しいじゃん」
「………確かに、地理の成績は良いし、街の写真とか好きだけど、私、この街知らない。それにここ」
凛音は辺りの建物を見て、そして口元を抑えた。
「なんだか気持ち悪い…………」
建物が気持ち悪い。そんな経験は普段はしないだろう。特に、里久や凛音の世界では。
しかし、今、凛音が感じたように気持ちが悪いのだ。形がいびつなわけでも、色が人間の癪に障るわけでもない。
ただ、その近未来的な建物が、誰もが「未来の世界」と聞いて想像するような街並が、これほど見事に存在しているというのに、人間がいないという不気味さ、生活という生活を感じさせない無気力さ、それが敏感な感覚を持つ彼女に作用しているのだ。
「そうか………?あぁ、なんか、そんな気がする、かも?」
凛音に言われて、まじまじと辺りを見渡してみるが、そんな気持ち悪さとは無縁な里久であったが、とりあえず、話を合わせることにした。
「あの穴は一体………」
例の穴を確認しようとした凛音だったが、彼女が見た時にはすでにそこに穴は無かった。
「ああ!!」
「うわっ!どうした?!大きな声を上げて?!」
突然の悲鳴に似た声に肩をビクンッと跳ねさせ、里久が凛音の視線の先に目を向けた。
「………マジか」
「どうしよう、消えちゃった……穴……」
穴が消えた。この街へは謎の穴をくぐり抜けてきた。その穴が消えた。それはつまり、元の場所に戻れないことを意味している。
里久は逡巡した。
自分も、凛音も先ほどの攻撃のせいで身体も服もボロボロ。食べ物も飲み物も救急箱もない現状で、このままこの場に留まることは無意味だと、彼は考えた。
さらには、見る限りは変な飛行物体も、列車たちもいない。
里久にとっては、これは好都合だ。
「ここに居てもしょうがない。とにかく、ここが安全ならそれでいいんだ」
「良くないよ!」
里久の言葉に、凛音は涙声で叫んだ。
「あんなことがあって、学校の皆、私の友達や先生や……それにママやパパがどうなっちゃったか………。穴も………消えちゃって……」
止まりかけていた涙が、再び頬を伝った。
気持ちが溢れてきてしまい、声を張り上げて泣き叫びたい、切実にそう思った。
両腕で拭っても拭っても、止まらない。
「っ、……………うっ、…………うぅ……ひっ……」
彼女の心は深く、深く沈んだ。この陰気な天気がより一層凛音に孤独を感じさせた。
「……すまん。悪かった。この通りだ」
自分が軽率な発言をしてしまったと理解するのに時間がかからなかった。里久はすぐに頭を深く下げた。彼はたまに、無神経ともとれる言動をしてしまう癖があるのだ。悪気は全くなかった。それに、心が冷たいわけでもない。相手を思いやる時もある。
「…………ううん…………うっ、…………わ、たしこそ、ごめん…………。分かってる………から、んっ……………里久に、悪気ないこと……………」
道路の真ん中から、建物のそばまでより、凛音が泣き止むのを静かに待った。雲が流れない。ここでは風すら死んでいた。静かに立ち尽くす建物の数々は、弱々しい少年と少女を横目に見守っている。
「落ち着いたか?」
「うん……ごめんね」
「いや、俺が悪かった。すまん」
「んーん」と首を横に凛音は振り、弱々しく、でも笑顔を見せた。
「よし。それじゃあ、この街を探索しよう」
「探索………?」
「ここは多分、異世界だ。漫画やラノベであるやつだ。勘だけど、ここはそれな気がする」
「異世界?漫画?ラノベ?里久、そんなのあるわけ……」
里久の言う事に反論しようとする凛音だったが、すぐに言葉に詰まってしまった。謎の穴、その先にあった変な街。見慣れない街。人のいない街。世界地図にも、世界旅行のいかなるガイドブックにも乗らないようなさびれた街。彼の言うように、異世界と言った方が合点がいく。そう、2人は今いるこの世界こそが、天野慶介とコスモスの出逢った世界なのだ。
しばらく、街を街を歩いている。
聞こえるのは歩く足音と、服がすれる音。
2人の髪の毛が、歩く時の振動によってゆらゆらと揺れている。
草一本生えていない道路には、寂しさが漂っている。
試しに建物の中に入れば、テーブルの上にはカラフルなお皿が並べられており、それぞれ食べ物が食べられないまま緑色や紫色に変色して横たえていた。コップには濁った水が、埃を漂わせている。椅子はしっかりテーブルにしまわれているものもあれば、数分前に誰かが立ち上がったかのように、テーブルに対して左向きに置かれている。他の家らしい家にも入ってみたが、やっぱり同じような状況だった。人はいないのに、どこか生活感がある。
「なんだか、人はいたんだけど、急に何処かに消えちゃったみたい。ちょっと怖いね」
「多分、何か緊急事態が起きて逃げたとかかな。その割には荒れてはいないけど」
凛音も里久も、さっきまでの動揺はすっかり取り払い、冷静な観察眼を以て目の前にある異常な光景を調べだした。
大通りの大きな交差点らしき場所に2人の何倍も高い銀のオブジェが空に向けて立っていた。その麓には、オブジェを中心に囲むような五角形の小さな枠。この配置とこの造りら、ここはかつては噴水だったのかもしれない。
「ねえ!里久!あれ見て!!」
驚きに声を裏返らせたことも気にせずに、里久の肩を揺らして、凛音が目の前のそれを指さす。
2人が見つけたものは、奇妙な形をした機関車に連結された列車だった。
客車は旧国鉄の普通列車であり、ボディーの色は青、屋根は灰色といったどこかノスタルジックなものであった。
しかし、機関車と一号車の間と、最後尾車両の一両前には、白く、普段の生活では見ない車両が連結されていた。
大きな箱から伸びた三つの筒。それが屋根と両側面に配置されていた。
機関車の色は水色で、昔のイギリスの方の蒸気機関車にも似た形をしているが、動輪の大きさと関係なく側面のパーツが持ち上がっている。そして顔ともいえる銀色の煙室扉の真ん中には、透明で半球状のガラスのようなものが堂々とつけられていた。
煙室扉の下から青いカウキャッチャーが伸びているが、それは穴が2つあいているのみで、あとは装甲版で覆われている
「これって、電車?」
「いや、蒸気機関車………か?見たことの無いタイプだな。形だって変だし。でも主連棒はある。それに後ろに繋いでいる客車は…………?」
この列車が何なのか調べるうち、いつの間にか何やら煙が出ていることに気がついた。
「里久……」
急に怖くなってきた凛音は里久に身体を寄せた。
無意識に彼を求めてしまうのだ。
「煙突から煙が出ている。こいつン中に誰かいる」
里久がこの異変の原因を確かめるために、汽車の方へ向かおうとした。
そのとき、客車の扉が開いた。
「ようこそ。人間の方ですね」
凛音たちの一つ年下、中学一年生くらいの黒い髪を後ろに束ねた少女がそこに立っていた。
ここに来て初めての人間。
その少女はスカートの丈が長いメイド服を着ていて、地面から数メートル高い客車のデッキから飛び降りると、優雅に着地し、礼儀正しくお辞儀した。
思わぬ登場人物にポカンと、呆けた2人だったが、この世界に来て初めての人間に出逢い、しかも言葉が通じると安堵した。
「こんにちは!ここら辺に住んでる子かな?」
凛音はすぐさま笑顔を浮かべ、「フレンドリーな凛音」を取り繕った。凛音は元々、裏も表もない性格で、誰に対しても明るく接していたというのに。
しかしながらここはさすがの凛音である。初対面の相手であっても、どんなに悪い人間でも、どんなに人と話さない人とでも、すぐに友達になれるような彼女のコミュニケーション能力の才能は、この時のために用意されたかのようであった。
ともかく、凛音も里久も、ここは廃墟のようなところではない、ここに自分たちぐらいの女の子がいるのだから、誰も人がいないのは自分たちの勘違いだったと思った。
しかし不審な点もある。それは目の前でおしとやかな仕草をするこの女の子が、「人間の方ですね」と言ったのだ。その言葉はつまり、人間以外もいるということ。
「私は夏川凛音だよ!凛音って呼んでくれたら嬉しいなあ」
「俺は加藤里久」
「申し遅れました。私はナナミといいます。ここでは何ですから、中へお入りください」
ナナミと名乗る少女は、両手をお腹の前で組み、丁寧にお辞儀をした。
「アジサイ、スロープを」
静かに、でも聞こえる声で言った。
それは凛音や里久に向けられたものではない。
声に反応し、客車の下から、骨組みやら金属の板やらがいくつも現れた。
それらは徐々に形作られていき、やがて白く上等な階段となった。
「こちらへ」
落ち着いた表情と声は、どこか安心できるものだった。それは凛音と里久も例外ではなく、促されるまま、階段を上り車内へと入っていった。乗降口のドアは独りでに閉まった。
2人が中へ入り案内されたのは、なんだかSF映画で見るような、薄暗い部屋だった。
チラチラと光っているのは、学校のパソコンルームのように並んだ、青白いモニター。
ここへ案内したナナミはグルリと2人へと向き直った。
「ここはどこだ?」なんとなく直観で察し、それを確認するように尋ねる里久。
「わ、わた、私は、護衛時空列車、あ、アジサイ、です」
今度は酷くどもった口調でナナミとは別に、少女の声が答えた。その声は天井から響き渡った。
「列車??どういうことだ??」
無意識に里久が繰り返した。
「ひっ……!」
「………やめなよ、里久。こんなに怯えてるんだから、怖がらせちゃだめだよ」
「あ、悪い。そんなつもりじゃ………」
「ほら、隠れてないで出ておいで?私たちは怪しい人じゃないの。ちょっと迷子になっちゃっただけで……。貴女も迷子なんでしょ?一緒にお父さんとお母さん探しに行こ?」
凛音は小さな子をあやすようにして、声の主に語り掛けた。
しかしアジサイと名乗る少女は「わ、わ、わ、私は、護衛、時空列車、アジサイ」と言っただけだった。
「大丈夫だよ。怖くないから。ほら、何も持ってないよ?」
両手を開いて何も持ってないことをアピールし、必死に呼びかける凛音。
彼女は完全に少女が列車のふりをしていると勘違いしている。
この列車が『生きた列車』であるということなど、微塵も想像しなかった。
「本当に、列車……………なのね」
「は、はい………」
「アジサイ、だっけ?」
「はい、アジサイ、です」
「さっき、私が貴女の所有者(マスター)となれば何でも願いを叶えてくれるって言ってたよね」
「は、は、はい………あ、貴女様のお望みのことを、す、することが、で、出来ます…………。あ、あ、貴女を、こ、殺すこと、い、以外は……………」
「お、おい、凛音?!」
凛音の何の前触れもなく、しかもいかにも怪しい話に乗るような姿勢に驚き、里久は彼女の顔を見た。
「お願い。確認したいの」真剣な眼差しで応える凛音。「……………アジサイ。私には復讐したい相手がいるの。そいつらに復讐することは出来る?」
復讐。それは意味のないものと、偉い人がよく言う。それに感化された人が、そういう本を書いて、そういう物語を作って発信し、そしてまた感化される人が増える。感化といいても、復讐に意味がないということは真理のように、正しいものであった。凛音自身もそれは解っていた。それが正しいことなんだろう。でも、彼女の心は燃えていた。目の前で救えた命を、これから先友達になれたかもしれない人を、大事な友人たちを、一緒に笑顔で過ごしてくれた人たちを殺されたのだから。災害と違い、恨む相手が明確にいる。
「復讐って、正気か?」
里久が焦り気味で訊く。しかしそれには答えなかった。
「出来そう?アジサイ?」
「て、敵の情報が無いと、け、計算でき、ません」
凛音は視線を落とし、やっぱりだめか、と肩を落とした。
「で、でも」アジサイは続けた。「め、命令し、してくれ、たら、やります。復讐でもなんでも………!」
その言葉は、暗闇を照らす光のようだった。
凛音は顔を上げた。
「里久。私、決めた。私、この子の所有者(マスター)になる。所有者(マスター)になって……」
憎悪に満ち、鋭い目つきで凛音は言う。
「あいつらに復讐したい」
「………マジか」
驚きつつも、里久はそれを受け入れた。いつだってそうしてきた。人に流されがちな彼は、いつも大きな波のように活発な凛音に流されてきた。
彼は、この幼馴染に惹かれていたのだ。
「アジサイ、私を、所有者(マスター)として登録して!!」
「り、了解しました。わ、私は、な、夏川凛音様を、所有者(マスター)として登録し、完全に、ふ、服従し、します。この身が朽ちるまで……。登録完了まで50%……100%。完了しました。再起動します」
車内が一度真っ暗になり、それから明るさを取り戻し、周囲に設置されたモニターには無数の文字が展開され、処理されていく。
「凛音様」
ナナミと名乗った少女は、凛音の足元に跪いた。
「私、アシスタント・ヒューマノイド、固有名称ナナミ、及び護衛時空列車アジサイ。ただいまより、御身に仕えさせていただきます」
「よろしくね。ナナミ」
「凛音様、こちらへどうぞ」
ナナミは立ち上がると、高級そうな座席に座るように凛音に勧めた。
「えっと。なんか、この席、やけに高そうじゃない?」
「この列車の主人が座る席ですから」
静かに教えるナナミ。
「そ、そう。なんていうか、私にはむず痒いから、里久座っていいよ」
「俺はいい。凛音が座っていいよ。ずっと歩いて疲れているだろ」
「再設定完了。機能チェック開始………。自己診断プログラム、異常なし。圧縮機関、異常なし。エネルギー充填開始。数十秒後点火。圧力上昇中。自動軌道発生装置、異常なし。バリアー発生装置、異常なし。生命維持装置、異常なし。電子戦専用ユニット、接続開始。電子戦用システム、アップデート開始。熱光学迷彩、異常なし。圧縮空間複合装甲第一装甲板に、一部劣化を確認。パージし、新たに装甲版を構築。ジャミング波発生装置、異常なし。圧縮機関、エネルギー充填完了、圧力上昇完了。スタンバイ」
中央のモニターに「セットアップ完了」の文字が大きく出ている。
「凛音様、発進命令を」
静かにナナミが促す。
「うん」と凛音。「行こう?アジサイ?」
「ご、護衛用次元走行列車、アジサイ。は、発進します…………!」
ピィィィィィィィィ!と声高な汽笛が、さびれた街の建物の間に鳴り響き、アジサイの動輪が二回空転し、客車を引き始めた。
ガタンッ。ゆっくりと加速する列車。人のいない大通りを、線路もないのに走るその姿は異様だった。列車はどんどん加速していき、ついに横のモニターに映し出される建物が次々と流れていくようになると、車輪と地面の距離が離れていった。離陸しているのだ。
アジサイが空を走るモニターに視線を投げかける凛音は、心の中で誓う。
必ず、復讐を果たすと。