午後5時45分。懐中時計の針はその時刻を指していた。
まだ6月で、雨天の今日は外を歩くには肌寒かった。
周りに立つ木々は緩やかな風に揺れ、私の手に持つ傘には雨粒が激しく打ちこんでいた。
私が今現在いるこの場所は都心の端にある、小さな山の上の児童公園。地理に疎い私は、この公園の名前を知らない。そんな私がわざわざ混雑した電車に乗り、雨に濡れてまでここに訪れたのは、山の麓に一列に並び咲き誇る紫陽花を見てみようと、写真に収めてみようという心が歩かせたためである。
青い紫陽花、赤い紫陽花。紫のものもあった。それを愛でたくて、やってきた。
そんな私が美しい紫陽花が立ち並ぶ麓の通りではなく、山の頂上に設置された児童公園にいるのか。それは偏に、人が多いからである。
私は本来、旅行をするときには、その地に誰か人間がいることを望む。個人店などに入り、その店の店主に名産を聞き、一言二言会話を楽しむ。私にとっての旅の楽しみの一つである。
誤解しないでいただきたいのは、誰もいない街で、さびれた神社、池、トンネルを訪れてしんみりとした雰囲気を楽しむ気質でもあることだ。
静かな場所で静かに過ごす。それも一つの趣だ。
しかし、旅先で人と全く逢わず、口を利かずなどしていると、やはり寂しくなってしまうものである。だからこそ、訪れた先々には人がいて欲しい。ただ、今日ばかりは下で紫陽花を愛でている私の仲間と呼べる人たちが煩わしく思う。その事について、声を大にして叫ぶ、そんな非常識的なことをする勇気もなく、仕方なくここで人がいなくなるのを待っているのである。
紫陽花は雨が映える。もちろん晴れていても美しいが、紫陽花は花や葉に雨粒がついているからこそ、しみじみとその存在の美しさを感じ取ることが出来る。
紫陽花という花は、雨に関係しており、それはもちろん梅雨の時期に咲くからに他ならない。優美に、逞しく咲き誇る彼女たちは、まさに雨の季節を告げるのだ。
だから、それを観に知らない人たちがお互い協力して、譲り合いながら写真に収めたとしても文句は言えない。
灰色の空は、段々と黒くなっていく。
雨が傘に当たる音に交じって、遠くでは駅の自動放送の音が聞こえてくる。
暇を持て余し、ただ雨に濡れた草の薫りを嗅ぎながら、適当に園内を歩いた。
水たまりがあちこちに出来ており、濁った空を映し出す水面には無数の波紋が次々と現れ、自然な模様を描いている。
風とともに、時間とともに、私は流されるように流され、駅とは反対側まで来てしまった。その先には石畳が敷かれ、大木たちが連なってトンネルを創る、薄暗い道が目の前にあった。
深緑の背景にポツリ、ポツリと点在する灯篭の暖かな光が実によく映えている。
しかも、雨が降って石畳が濡れていることから、その光は丁寧に反射されている。
ここには彩る紫陽花はない。
しかし、ゆったりと風を楽しみながら歩く余地はありそうだ。
私は、すでに浸水した靴の事なども忘れ、しばらくそのトンネルを歩くことにした。
見方によれば、薄気味悪い場所なのかもしれない。しかし、今、私の心情をもってすれば、十分に落ち着くことのできる憩いの場になるのである。
ピチャ、ピチャ、ピチャ。私の足は、地面に薄っすらと張った水の膜を歩いた。
麓ではあれだけ人がいたというのに、ここには人はいない。
そう思っていたところに突然、目の前に人の影。
私はその人物に近づいてみた。
灯篭の光に照らされて、その輪郭が浮かび上がる。
私は奇妙に思った。
その人物というのが、なんと、こんな雨の日に、しかもこんな現代になってまで、黒い着物の腰には白い帯を結って、赤い傘をさしているのだ。
後ろ姿だったので、どんな顔かは分からなかったが、その佇まいからは昔の女性の気品が溢れていた。
こんな雨の中、そのような格好をしているなんて信じられなかった。その人の足袋はきっと、ぐっしょりと濡れてしまっているはずなのだから。
僕は足早にその人を追い抜いた。
傘を少しあげ、ちょっと振り向いてみる。
僕は息を呑んだ。
女性は肌が白く、辺りが薄暗いこともあって、より映えて見えた。
その視線は下を向いており、頭ももたげて、何かを必死で探しているようだった。
こんな日に、天気予報でも雨がひどくなると言われているこの日に、着物を着て、服を汚しやすい公園に来るような人に若干の疑いの気持ちを持っていたが、何か困っているのなら話はべつだ。
目の前に助けが必要な人がいたら、手を差し伸べよ。それがうちの教えだからである。
僕は踵を返し、来た道を戻った。
「何かお探しですか」
ご婦人は視線を私に向けた。さらに私は息を呑んだ。薄暗くて分からなかったが、目の前にいるこのご婦人は、年齢が分からないほど美人であった。
決して年を取っているわけではない。かといって幼い顔立ちをしているわけでもない。
同い年の女性とも違う。
完全にこの世の者とは思えぬ美貌だった。
「手巾を無くしてしまいました」
消えてしまいそうなか細い声で、婦人は応えた。
「お手伝いしますよ」
「いえ、結構です。私、1人で探しますから」
そういってご婦人はまたもや視線を下に向けた。
「そう言わないでください。1人よりも、2人の方が確実です。それにもうすぐ暗くなります。どんなのです」
私の質問に少し間をあけて、彼女は真っ赤な唇をゆっくりと開いて応えた。
「紺色の生地に、ピンク色の刺繍が施してあります」
淡々とはしているが、先程よりもはっきりとした声だった。
見た目だけでなく、そういった仕草の一つ一つに気品が滲み出ている。
どこか名家の方なのだろうか。
「紺色の生地にピンクの花の刺繡ですね。ここで落としたんですか?」
「先ほどまでは確かに持っていました。下の紫陽花を眺めていた時までは。でも、上にあがってからは、分かりません」
「では、登る途中で落としてしまったのかもしれませんね」
私と婦人は並んで歩き、地面に目を向けて、彼女が落としたというハンカチをさがしながら歩き始めた。
空が幾分か暗くなってきたきがした。
ポタ、ポタ、ポタ。
木々の葉から次々と雨粒が落ちてきて、それを受け止めた私の傘と婦人の傘からも、また同様に雨粒が落ちていく。
雨はより一層強くなるばかりで、視界も悪くなっていく。
周りの音も、よく耳を凝らさなければ聞こえにほどである。
実際に、ここに来る時まで聞こえていた最寄りの駅の自動放送は、一言もしゃべらず黙り込んでいまっている。
私たちは薄暗い石畳を歩く。無言で。
無音ではない。
雨の音はしているのだから。
しかし、今2人の間には会話という会話はない。
「あのう、なぜ、このような天気に、そのような着物を着ておられるのですか」
沈黙に耐えかねた私は視線をわずかにあげた。
「なにかおっしゃいましたか?」
「なぜ、このような雨の日に、そのようなお着物を?」
傘を上げ、婦人はどこか遠くを見つめるようにしてから、ちらっと私を見た。そして地面に視線を落とした。
「この服は、私にとっては、この雨が降ることと同じくらい当たり前のことなのですのよ」
「そうなのですか」
とくに逡巡することも、その言葉の意味を理解することもなく、私は上辺だけの返事を返した。
「とても、綺麗な着物ですね。貴女のような女性に着てもらって、さぞ、その着物も喜んでいることでしょう」
「実を申しますと、この着物は私には少し多きすぎます」
歩いていくと、鉄製の手すりが設置された、木製の階段があるところまできた。
ここに来るまで、手巾らしきものは見つからなかった。
やはり、彼女はしたの紫陽花の咲く通りでハンカチを落としてしまったのだろう。
「ここは滑りやすくなっています。手をどうぞ」
私は傘の端が婦人の方に傾かないように注意を払いながら、彼女に手を差し伸べた。
「ご親切に、どうも有難う御座います」
すかり濡れた木の足場の一つ一つは本当に滑りやすく、手すりにつかまれない私は心細く感じた。
「やはり、下の方で落とされたようですね」
「ええ、そうですね」
私たち2人が階段を折りきると、一本の通りの右側に一列となって紫陽花たちが咲いていた。
左側には鉄道の線路。
風を切り、雨を切り、通勤電車やら特急電車やらが忙しく行き来を繰り返している。
私と婦人は再び横に並び、手巾を探し始めた。
雨は止む気配はなく、また強くなっていた。
「紫陽花は、お好きですか?」
婦人の声がふと、耳元でそんな風に訪ねてきた。
ようやくこのご婦人も、沈黙に耐えきれなくなって会話を試みたのだろう。
私は彼女に甘んじて、会話に花を咲かせることに集中しようと、この先の会話の展開を何通りか予想し、上手い冗談の一つでも言ってやろうと身構えた。
私は考える仕草をしてから、間を置いて、答えた。
「……紫陽花。好きですね」
「どういうところが?」
「そうですね………。たとえば、形が好きですね。平べったいものも、丸っこいものも、どちらも宜しい。そして咲く季節が梅雨で、雨が似合うところも好きです」
「ご婦人は、紫陽花はお好きですかな?」
「ええ。とっても。貴方は紫陽花の花言葉をご存じ?」
空を見上げる。
分厚い黒い雲。
山に密集する木々の葉。
容赦なく降り続ける雨。
「『優雅』や『冷淡』、でしょうか」
「ええ……。でも他にもありますわ。例えば、『移ろい』」
声のトーン自体はなんら変わっていないはずなのに、婦人の気持ちが暗く沈んでいるような気がした。
「もしくは『浮気者』」
「たしか、土の環境によって花の色が変わっていることからきているのだそうですね」
「人の心に似ていませんか」女は消えてしまいそうな声で、でもはっきりと言った。
「というと?」
「人は、同じものを好きでいることが出来ないものです。そしてまた、喜怒哀楽を常に保つことも出来ないのです」
「でも、それは土のせいなのですよ」
「そう、土のせいです。儚く、脆いものです。この雨の季節にしか咲かない紫陽花のように、短く、儚いのです」
女は立ち止まり、細く長い指先で、青い紫陽花の花房を下から撫でている。
「でも、だからこそ、私は紫陽花が好きなのですのよ」
「そうですか」
どう返せばいいのか分からなかった。私はただ、目の前にいる奇妙な色白の肌に黒い着物をまとった女を見つめる事しか出来なかった。雨は尚も降り続けている。
しかし、なるほど、何となく彼女の境遇を察した。
わざわざ頭の中で考えることもないことであるし、他人の事に一々気を煩う必要もないだろうと、私はそのことを深く考えるのをやめた。
「手巾、見つかりませんね」
「きっと、あると思います」
婦人は再び歩き始めると、私もその背を追うようにし、横に並んだ。