上映開始後、早々に終わってしまった劇場版『キャプテン・ハーロック』。
一緒に見に行った小学生の愚息は「残念だったねぇ」と呟き、奥さんは「これじゃ一般受けしないね」と言っていた。
いやいや、原作漫画やTV版はもちろん、劇場版『わが青春のアルカディア』も当然として、ハーロックが出ているというだけで作品自体の評判が芳しくない『ヤングハーロックを追え! コスモウォーリアー零 外伝』や『宇宙交響詩(Space Symphony) メーテル~銀河鉄道999外伝~』などまで観た私のようなファンも含めて、誰も喜ばない作品だったのではないだろうか。
そもそもキャプテン・ハーロックは、松本キャラとして有名でありながら、原作漫画やTV版といった単独作品を視聴した人は少ないという稀有な存在である。
おそらく記憶にあるという人のイメージは、比較的視聴が容易な、劇場版『銀河鉄道999』で「男なら、危険を顧みず、死ぬと分かっていても行動しなければならない時がある。負けると分かっていても戦わなければならないときがある」という台詞のシーンだろう。
この時のハーロックの人物像は、すでに幾多の戦いを越えて、熱い心を胸に秘めつつ、しかし落ち着いた貫禄を漂わせ、次世代を温かく見守るというものだった。
しかし、原作漫画を読めば本来のハーロックは案外とだらしのない人間臭い人物で、若き日のハーロックが登場する作品でのトチロー、親友であり死んだ後もハーロックが駆る宇宙海賊船アルカディア号のメインコンピューターとなって共に旅をする生前の彼とのやり取りを観てみると、己の信念に生き、男らしく決断するのはトチローの方で、ハーロックは戸惑いながらもトチローに運命を託す優柔不断男のように描かれている。
だから、「俺の旗のもとに俺は自由に生きる」というハーロックは、人間時代のトチローを失ってから、トチローの生き方を受け継いでからなのではないかと、私は勝手に思っている。
では今作のハーロックはというと、何しろ原作者である松本零士先生でさえ、何度も設定を変更しているのだから、アルカディア号に搭載されている異星文明の謎の動力機関「ダークマター」の呪いで100年以上生きている不死の体だとか、ハーロックの目的が個人的な失敗の後悔の念で全宇宙と人類を巻き込んだハタ迷惑な作戦を決行するためだとかは、大目に見よう。
でも、敵に捕らえられ助け出された時に、「これが……自由か………」と涙を流すのは、やめて欲しかった。
いや、本当は作中でのトチローと何やら研究しているらしい回想シーンがあり、その研究に関連して咲いた花を見て涙したのは分かるとはいえ、助け出されたタイミングでのこのセリフとの組み合わせは、どう演出しても情けなさすぎるというもの。
脚本を担当した福井晴敏先生のコメントによると、今の若者に「これが俺たちの英雄だ」と押し付けたら「何も伝わらない」と考えて、ハーロックのダークヒーローの面を強く描いたという。
それはある種の恥ずかしさというか照れだったのかもしれないが、むしろ今の若者に「これが俺たちの英雄だ!」と胸を張って言えない情けなさが、今回のハーロックに投影されてしまったのではないか。
同じように今までのハーロック像を覆そうと、「強烈なカリスマを持つ男についていったら……」それが過ちだったというのを描きたかったようだが、それはいささかハーロックの立ち位置を勘違いしているように思える。
ハーロックの立ち位置は、タイトルこそ『ドラえもん』でも物語の主人公は野比のび太であるように、ハーロックもまた秘密道具の代わりにその超人的な能力で、若者たる主人公、今作ではハーロックを暗殺するためにアルカディア号に乗り込んだヤマを、命を狙われながらもサポートするというもので良かったはずだ。
ラストでヤマがハーロックの後継者となり、呪いの解けたハーロックから代替わりするような描写があったから、今作のハーロックもまた若かりし頃にヤマのように思い悩み苦難を越えてきたという物語にしたかったのだろうとは分かる。
分かるけれど、そうであるのなら呪いによって不老不死になったという設定は要らないし、代替わりなどしてしまったらハーロック・サーガにおける重要なキャラクター、トチローとの関係性を蔑ろにしているかのようで、作品の完成度によらず納得しがたい。
なにしろ、アルカディア号もダークマター機関の影響により自己修復能力があるという設定で、その能力自体は補修のために他の惑星に立ち寄らずに戦えるという点において有益であるものの、トチローが開発し魂を宿す船で共に旅をするという二人の友情を除外してしまっている。
映像としては、敵の攻撃をものともせず突撃を繰り返すアルカディア号の戦闘シーンは迫力があったのに、ハーロック・サーガの根幹を亡きモノにしてしまっては、まさに呪われた幽霊船のようだ。
私自身は、原作至上主義のつもりはない。
そもそも原作漫画は未完であるし、これまでの映像作品でも作品ごとにハーロックの設定は異なっているのだから、なんならハーロックが女性でも良い。(それじゃ、クイーン・エメラルダスだ)
ただ、荒牧伸志監督を始めとした制作陣が、映像作品としてハーロック・サーガの旗艦ともなる機会を、「今までと違うハーロックを」と意気込んだ挙句に、二次三次創作の実験作にしてしまったのが残念でならない。
敵の指揮官である、ヤマの兄イソラの方が悩みながらも一本筋の通った男だったのとあまりに対照的な今作のハーロックは、きっと偽者だったのだろうと思いたい。
なにしろハーロックは、子供の頃に憧れた伝説の男なのだから。
◆『キャプテンハーロック』公式サイト
http://harlock-movie.com/