「神様、死ね。氏ね、じゃなくて、死ね」
これまで、観る人を選ぶ作品は「ロボット物」や「美少女モノ」なんかだと思っていた。
しかし違った。
観る人を選ぶの作品は、『カラフル』のような、「現代ファンタジー物」のようだ。
それは、観る人の経験や人生観が、作品への感じ方や評価に過度に影響するから。
昔、どこで見聞きしたのか、「批評という行為は、作品の良し悪しではなく、批評者が己と作品との関係性を告白することである」という言葉を思い出す。
そして、「死んだ魂が、生き直すことで犯した罪に向き合う」本作で私が感じたのは、とにかく「ウザイ」である。
思春期にありがちな狭い世界観で死を選んだ主人公がウザければ、腫れ物に触るような、でも家族としての絆を寄せてくる家族もウザイし、自己を確立させるために主人公に肯定的に、あるいは否定的に接してくるクラスメイトや友人もウザイ。主人公に、おそらくは自分の「失敗した経験」を投影して協力する「導く者」がウザイにも程があるし、なによりも主人公にチャンスを与えた気になっている神様が最上級にウザイ。
「オマエらイチイチ俺に構うなよ」と、なんとも居心地の悪さに苛まされ、観終える頃には、疲労困憊となった。
その意味において、この作品は、とても良く作り込まれていて完成度が高く、それゆえに二度と観たくないし、人にも勧めにくい。
しかもそれは、物語だけではなく、表現としての絵の描写もそうだった。
3Dとして作られた路面電車の走るシーンは、まるで実写のように描かれているのが、かえって薄気味悪いリアル感を醸し出していて、美しい記憶のシーンとなっていない。
主人公が生きる意味を色に例えて語った後に、校舎の屋上から見渡した街の景色は、実写から描き起こしたかのように緻密なのに、ちっとも「カルフル」でなく、色褪せて見えた。
良くジブリ作品の背景が「リアル」とか「丁寧に描かれている」と評されるが、この作品と比べると、実は決して「写実的」ではなく、あくまで「人間の記憶の中の景色を再構築している絵」なのだということが分かる。
そして本作で描かれる「リアル」なシーンは、人間の記憶に寄らない、現実の景色そのものだから、違和感を感じる結果になってしまっている。
そう、旅行先で撮った写真を眺めてみたら、記憶と違っているというような違和感である。だから、デジタルカメラの中には、原色のまま撮影記録するのではなく、あえて人間の感覚、いわゆる「記憶色」で画像処理を施すようチューニングされている機体がある。
それがこの作品では、リアルに描くことに徹するあまり、違和感として感じさせられることになってしまっているのだ。観る人と、そして主人公の「記憶を呼び覚ます」作品なのに。
ただ、観る人を選ぶ作品と書いたが、子供の視点はまた違うようである。
観終わってから劇場を退出するときに見回した中での、小学生くらいの子供たちの表情は一様に満足した様子だったし、家族や友達と話している感想の端々からは、「未来への憧れと期待」を持ったらしい。
人間に希望を持たせた神様、“創造主”も罪作りなものである。
◆『カラフル』公式サイト
監督:原 恵一
原作:森 絵都
音楽:大谷 幸
脚本:丸尾みほ